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大泉かるた

更新日:2023年12月7日

大泉かるたは、町制45周年の記念行事の1つとして作成され、町の歴史、文化、産業、人物、自然が描かれています。

かるたを通して、ふるさとの良さを認識し、郷土愛を育み、まちづくりに寄与するこころとエネルギーを培っていきましょう。

なお、大泉かるたは、令和6年1月25日から販売を開始します。

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あ行

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大泉太鼓は、昭和63年「大泉まつり」の華として誕生しました。大太鼓、小太鼓、締(しめ)太鼓、笛、鐘など、総勢10人前後で演奏します。
町の成人式や、各種イベントに出演し、今や町の郷土芸能として活躍しています。

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寄木戸の宝寿院は、楠正行公正室の加富貴御前の開創と伝えられている曹洞宗のお寺です。
境内の糸ひばは、寺と地域の歴史を偲ばせる推定樹齢約450年の大木です。

山門内左側にある素朴な地蔵菩薩は、地蔵信仰がさかんになる江戸時代以前の永禄12年(1569年)に建立された町内最古の石像で、昭和54年11月、町の重要文化財に指定されています。

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中 平四郎は、明治24年小泉村(現:大泉町中央)に生まれました。生まれつき耳と口が不自由でしたが、大正2年、23歳の時、彫刻家を志しその道を踏み出しました。以来、刻苦勉励し、木彫り彫刻等において日本美術院展に通算16回の入選を果たし、昭和11年には同院院友に推挙されました。代表作には昭和2年、同院展入選作品の「牡牛(おうし)」があります。

「牛を彫ったら日本一」または「牛の平四郎」と称される彫刻家となりましたが、昭和24年、惜しくも56歳でこの世を去りました。

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恵比寿講は、商売繁盛、福の神として信仰されている西宮神社のお祭りです。毎年11月19日、20日の2日間開催されます。当日は、境内までの道にはたくさんの露店が並び、おたから熊手が売れるたびに、景気のよい手締めの音が響きます。また福引などで幸運にあやかろうと、縁起物の景品を求める人たちでたいへん賑わいます。

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大晦日の夜、古海・高徳寺の鐘が108つ鳴り響きます。高徳寺は児島高徳の開山と伝えられ、天授6年(1380年)、伽藍を建立したといわれています。本尊は文明15年(1483年)に作られた大日如来像です。昭和55年、高徳の墳墓整備と玉垣の建造が行われ、当時の横綱、北の湖が土俵入りを行いました。

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か行

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富士之越の鹿島浅間神社(かしませんげんじんじゃ)は「鹿島の浅間様(せんげんさま)」と親しまれ、延徳元年(1489年)、小泉城を築いた富岡直光が祀ったと伝えられています。
毎年6月1日には初山の祭りを行っています。
生まれて1年以内の子どもに、きれいな着物を着せてお参りすると、神社では子どもの額に判を押して無病息災をお祈りしています。

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願成寺(がんじょうじ)は、城之内北西にあり、天文10年(1541年)に開山した高野山真言宗の寺で、本尊は阿弥陀如来です。
小泉城2代城主:富岡秀光は、小泉城の守護神として三島神社を祀り、その傍らに寺を建立しました。これが願成寺で、推定樹齢200年余りの見事なしだれ桜が庭に彩りを添えています。

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探湯(くがたち)は、社日稲荷神社の特殊神事で「湯加持行事(ゆかじのぎょうじ)」ともいいます。神前に供えられている大釜中の熱湯に小笹を浸し、それを全身に浴び神に誠意を誓い、信託を仰ぐという内容のものです。
探湯は本来、人心の善悪を探るものでありましたが、今日では家内安全、厄難除け等の神事として受け継がれ、豊作祈願とその実りに感謝の意を捧げる社日神社の3月と9月の例祭に併せてとり行われています。
昭和54年11月には、町の重要無形文化財に指定されています。

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大泉町文化むら(現在は施設の愛称「洋泉興業大泉町文化むら」になります。)は、郷土の文化継承と新しい文化創造の拠点として、町制施行30周年を機に建設され、平成元年にオープンしました。
ホールや展示棟の大屋根は、かつて郷土の特産品だった小泉焼の十能瓦(じゅうのうがわら)を模した瓦で葺かれています。コンサートや美術展等の芸術に関する催し物や講演会には、たくさんの人々が集まります。

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城之内公園北西の木立の中に、たくさんの庚申塔(こうしんとう)が立ち並んでいます。五穀豊穣や災厄・病魔退散を願う庚申信仰は、庶民の娯楽の一つともなり、江戸時代にはさかんに行われましたが、時代の変化とともに衰退してしまいました。
百庚申は、小泉城址付近一帯に建てられていた庚申塔を、昭和49年、現在地に遷座したものです。

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さ行

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昭和57年、春に咲く花チューリップ、秋に咲く花サルビアは「町の花」に指定され親しまれています。
毎年、いずみ緑道には美しく開花させ、みんなの目を楽しませてくれています。
町の木として、「シンボル木:けやき」「緑化推奨木:さざんか(つつじ類さつき含む)」が指定されています。

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児童館は、大泉には東西南北の4館があり、いつでもだれでも気楽に利用できる施設です。児童に健全な遊びを与え、遊びを通して仲間づくりを行い、自ら遊びを見出し、健康の増進と情操を豊かにするための児童の健全育成を目的とした施設です。また、小学校低学年の留守家庭児童を対象とした学童保育も行っています。

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神楽(かぐら)は神前でそうする上古(じょうこ)から伝わった歌舞(うたまい)です。神代の昔、天照大神(あまてらすおおみかみ)の岩戸隠れの時、八百万(やおよろず)の神が奏したのが始まりとも言われています。これらが地方の神社に移り、大泉町でも白山神社(はくさんじんじゃ)に伝わる吉田西里神楽(よしだにしさとかぐら)として伝承されてきたようです。
この神楽は昭和59年10月、町の重要無形文化財に指定され今日に至っています。神楽囃子(かぐらばやし)に合わせてのおかめ、ひょっとこの素朴でユーモラスな動きには、思わず笑いがはじけます。

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休泊掘は渡良瀬川から取水し、現在の太田市から邑楽郡、館林市にかけて広大な田畑に水を供給する重要な用水路です。その始まりは戦国時代の元亀年間(およそ1570年ごろ)にさかのぼり、足利の領主長尾氏の家臣、大谷新左衛門(おおやしんざえもん)が普請奉行(ふしんぶぎょう)となって開発されました。
新左衛門は休泊と号していたので、それにちなんでこの用水路は休泊掘とか休泊川と呼ばれ、その功績が長く世に伝えられるとともに、今に親しまれてきたのです。

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45メートルの展望室からは、地上と違った角度で町が眺望でき、天気のよい日には遠く富士山や日光連山が見えます。
いずみの杜(現在は施設の愛称「東朋産業いずみの杜」になります。)は、楽しくつどい、遊び、学べる交流空間として四季折々の花が咲く自然豊かな環境の中に造られています。建物は4棟に分かれ、管理棟・多目的棟・リフレッシュ棟・沐浴棟それぞれの棟と庭は回廊で結ばれ、自由に行き来することができます。

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た行

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大泉まつりは、昭和48年から郷土産業の発展と町民のふれあい、および近隣市町村との交流などを目的に、町民総参加の一大レクリエーションとして開催している夏祭りです。
祭りを盛り上げるため、子どもたちが乗った「山車(だし)」が各地域から約30台も繰り出され、町中に太鼓の音が鳴り響きます。

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昔は大きな木を組み、その上に土を敷いた橋で「ハシバハシ」と呼ばれていました。昭和15年ころ、この橋をコンクリートの橋に架け替えたのを機会に、吉田学校(現:南小学校の前身)の新井源三郎先生(元:大川村長)が「千歳橋(ちとせばし)」と命名しました。
現在も新谷田川に架かる橋の中でも、通学路として重要な橋の一つです。

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御正作公園(みしょうさくこうえん)は、昭和61年4月大泉町の東部、通称「下田んぼ」といわれる広大な土地の一角に開設された公園です。園内には四季を彩る数々の木々や家族で楽しめる遊具、また遊歩道やあずまやが設置されています。通称「ひょうたん池」にかかる吊橋は、園内人気のスポットでもあり、多くの来園者を楽しませてくれています。
また、同公園周辺では、旧石器から古墳時代にわたる「御正作遺跡」の発掘調査も行われ、遺構・遺物も多数発見されています。
なお、つり橋は、現在はありません。

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仙石地区に伝わる獅子舞。登場する獅子にはほうがん獅子、牝獅子の三頭がおり、これらの獅子が竹を細かく切り裂き束ねた「ささら」の音色に合わせて舞をおどります。
災いを防ぎ、病魔除けとして舞われている仙石のささら舞いは、江戸時代の元禄年間から伝承されているものともいわれ、正月や春分・秋分の日等に演じられています。昭和58年12月、町の重要無形文化財に指定され今日に至っています。

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戦国時代、ここに岡山城が築かれました。この岡山城は、利根川を渡って攻めてくる敵の軍勢を退ける重要な拠点でした。小泉城が築城されるとその出城となり、幾多の戦闘を繰り返し敵を撃退してきました。

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な行

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道祖神は、道路の辻、村境、峠等に祀られ、外から入ってくる悪疫神や悪霊を防ぎ、村人や旅人等の安全を守るために立てられたものと言われています。
坂田の道祖神は、仲むつまじい男女二人の神様が彫られている双体道祖神(そうたいどうそしん)(別名:恋道祖神)です。道祖神は、けんかやいじめなどは大嫌いで、元気で明るい仲良しな子どもたちを、道の傍らからいつも温かく見守ってくれているような感じがします。

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長野 大原(ながの たいげん)は、明治35年小泉町(現:大泉町北小泉)に生まれました。旧制太田中学校を卒業後、上京し、館林出身の小室翠雲(こむろすいうん)の塾で学び、日本画院や南画院(なんがいん)に山水、花鳥図等の作品を出品しました。
関東大震災後、群馬に戻り、旧制渋川中学校、現在の太田高校で美術教師をする傍ら、日本画を通して榛光会(しんこうかい)や白水会(はくすいかい)を主宰し、文化振興に貢献しました。
晩年は、病のため左手での制作となり、号を萬生(ばんせい)と改めました。また、群馬県展の審査員としても長く務めました。

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大泉斎場入口の道側に小さな石の墓が建っています。
その昔、間之原(あいのはら)の旧家に盗人が入り、金品を奪って逃げましたが、若者が追いつめて切り殺してしまいました。人命を奪った罪を恥じ、そのたたりを恐れた人々が墓を建てその霊を慰めました。これを「夜盗(よとう)の墓」と呼んで、今でもお参りをする人がいます。

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寄木戸字山王(よりきどあざさんのう)にある庚申様(こうしんさま)は、祈願するとイボが取れることで知られています。
堂内の庚申像の前の砂でイボを数日間さすり、取れたらお礼に新しい砂を返すならわしです。
江戸時代から全国でさかんに行われてきた本来の庚申信仰は、今ではすっかり廃れてしまいましたが、ここでは今でも11月に講が開かれています。

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北小泉間之原(あいのはら)に、江戸時代建立の赤地蔵があります。自然石に線刻したもので、石全体が赤く塗られています。間之原は昔、太田海道が東西に通り抜けていたので、村の西の入り口だったことから、災厄が入らぬよう願って建てたものと思われます(東は榎庚申)。
女性の病気平癒や子宝を願い、石像を赤く塗る信仰は今もなお残っています。
のんのさまとは、幼い子どもが使う言葉で、仏様のこと。

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保健センターは、乳幼児から高齢者までの健康相談、健康教育、健康診査等、健康に関することについて、総合的な保健サービスを行っています。
いつでもだれでも相談でき、保健師、栄養士が対応してくれます。
なお、保健センターは、建物の名称が変わり、大泉町保健福祉総合センターになりました。

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ケヤキの木は成長すると大木となり、昔から家を支える大黒柱や高級な建材として利用されてきました。
町内には小泉神社境内のものを初めとして、立派なケヤキの大木がたくさんあります。
私たちの郷土・大泉町が、これからもこのケヤキのようにますます飛躍、発展することを願って、昭和57年に「町の木」に指定されました。

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「佐貫の荘(さぬきのしょう)」は藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が功田(こうでん)としてたまわった私有地(荘園)で、邑楽郡域で鎌足五代の小黒麻呂(おぐろまろ)や、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫が管理していました。
古氷にあったという政所(まんどころ)は、武士たちがこの荘園を治めるために置いた、政務・事務を司る役所のことです。
藤原鎌足七代の藤原長良(ふじわらのながら)公は、上野国(こうずけのくに)に赴任し、治安・治水などを行い、東毛開拓の神と讃えられ、その遺徳を追慕して各村に「長良神社(ながらじんじゃ)」が建てられたと伝えられています。

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本尊の弁天尊(べんてんぞん)は、弘法大師の作といわれ、開山の観誉了海上人(かんよりょうかいしょうにん)が勢光寺堂内に安置しました。
その後、三代の敬誉(けいよ)の時にお告げをこうむり、寛永6年(1629年)、横根原(よこねはら、現在の横根宿)に勢光寺の末寺として弁天堂を建て、この弁天尊を移しました。その後、神仏分離により、神様の弁天尊を祀る弁天堂は、現在の厳島神社となっています。

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間之原(あいのはら)地区に伝わる奉納相撲は、無病息災、家内安全、五穀豊穣を願い、代々受け継がれてきた伝統行事です。
ここには「相撲好き」といわれるお地蔵様がいます。例祭は旧8月24日で、現在ではこの時に子ども奉納相撲を行っています。昔は、近県からも草相撲の力士が来て相撲を取ったと伝えられていますが、その時に力士が赤ん坊を抱き、その足で土俵の土を踏ませ、力士のような丈夫な体となるよう祈ったことからここの地蔵様は「子育地蔵(こそだてじぞう)」とも称され、地域の人々に親しまれています。

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ま行

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今からおおよそ250年前ごろから、小泉焼・十能瓦が造られました。粘土がたくさん採れたことと、農家の副業として適していたため、大正時代には瓦を造る家が50軒程もありました。
ほうろく、火鉢、植木鉢、土管、土瓶、火消し壺等も製造され、町の産業として活気にあふれていました。

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古海天神山古墳から出土したと伝えられる「埴輪 椅子(はにわ いす)に腰かけた女子」(巫女埴輪)は、現在、東京国立博物館に所蔵され、国の重要文化財となっています。この巫女埴輪は、端正な顔立ちと愛くるしさに加え、その気品あふれる容姿からは優しささえ感じられます。
この古墳は、6世紀前半から中ごろに築造されたと考えられる帆立貝式古墳で、現在は、既存道路等によりその一部は破壊されて切り通しとなっています。

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桜の名所、城之内公園(しろのうちこうえん)は、小泉富岡城址です。
小泉富岡城は、延徳元年(1489年)、古河公方、足利成氏(あしかがしげうじ)の家臣、富岡直光(とみおかなおみつ)が築城した平城で、当時の平城としては代表的な城といえるものです。富岡氏六代101年の間、一度も落城しませんでした。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉に降参して開城しました。今も本丸と二の丸の一部の堀や土塁が、昔の面影を残しています。

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昭和59年、古海(原前)地区内の町道新設工事に伴い発掘調査が行われた古墳です。墳形は帆立貝式を呈し、全長は推定約55メートル、周濠幅9メートル、深さ0.8メートル、周囲との比高差は概ね3メートル程を測り、四基重なった形の竪穴式の埋葬施設が確認されました。
築造は5世紀末から6世紀初頭と推測されています。埴輪や供献土器をはじめ、銀装捩文環環頭大刀(ぎんそうねじもんかんかんとうたち)や同向式画文帯神獣鏡(どうこうしきがもんたいしんじゅうきょう)、また鉄鏃(てつぞく)や馬具等の貴重な遺物が出土しており、昭和63年7月、群馬県指定史跡となり今日に至っています。

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町の北部を東西に貫くように作られた分水掘緑道(ぶんすいぼりりょくどう)は、全長約800メートル、小泉城址の外堀の一部を利用し整備された水と緑の遊歩道です。
ベンチやあずまやも設置され、初夏に咲き誇る菖蒲をはじめ四季の花々が楽しめます。

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小泉山成就院(こいずみさんじょうじゅいん)は、平安時代の元慶年間に藤原氏末裔の築比地次郎良基(ついひじじろうよしもと)が開創して以来、千年以上の歴史を有する真言宗の古刹であり、町内に現存する最古のお寺です。
創建以来、築比地郷(ついひじごう、昔の飛行場)にありましたが、1504年に小泉城の初代城主、富岡直光が小泉城内に移築しました。本尊の不動明王は弘法大師(空海)の作と伝えられています。
法灯(ほうとう)とは、仏の教え(仏法)を世の闇を照らす灯にたとえたもの、あるいは寺の仏前の灯明のこと。連綿(れんめん)とは、いつまでも続いて絶えない様子。

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大泉町の南、群馬県と埼玉県の県境を流れている利根川は、信濃川、石狩川とともに日本の三大河川の一つです(流域面積は第一位、長さは第二位)。
昔は、関東地方のことを坂東といったことから、利根川が関東一の川という意味で、親しみとほこり敬う気持ちを込めて「坂東太郎」と呼んできました。

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吉田村の郷士・田沼源内清房(たぬまげんないきよふさ)は、中気病(ちゅうきびょう:中風)にかかり磐城(いわき:現在の仙台市)にある青麻神社(あおそじんじゃ)に参拝し、病気平癒を祈りました。すると21日にして全治したので清房は元亀元年(1570年)、分霊を自分の館の吉田本郷に勧請(かんじょう)しました。それが現在の吉田の青麻神社で、中風の神として信仰を集めています。
青麻神社の庚申塔は、昭和58年12月、町の重要民俗文化財に指定され、今でも毎月11日の緑日には、遠方より多くの人々が参拝にやってきます。

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天文3年(1534年)、小泉城二代城主・富岡秀光(とみおかひでみつ)公は、禅宗(曹洞宗)の名刹(めいさつ)・館林の茂林寺から梵海正音禅師(ぼんかいしょうおんぜんじ)を招き、父富岡直光の13回忌供養のため龍泉院を建立して菩提寺としました。戦国乱世の時代、生死に直面することの多かった武将たちは、座禅による精神修養を修行の基本とする禅宗の宗風や死生観に、自らの精神のよりどころを見出したのかもしれません。
以後、龍泉院の二世、三世、七世の住職が、現在の大泉町、邑楽町を中心に曹洞宗のお寺をたくさん建立して、その教えを広めました。

禅林とは、禅宗の寺院、禅僧のなかま。

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いずみ緑道は、鉄道敷跡地などを利用し、町の中心を南北に縦断する形で整備されています。各ゾーンごとの特徴と併せ、同時に歩道と自転車道の2つの路を配し、種々の樹木、草花がそれぞれ四季の変化を醸し出す憩いの場として親しまれています。また、彫刻を配して芸術とのふれあいを演出するなど、緑の中、青空のもとで多くの人々の目を楽しませるとともに近隣の公園などを結び、災害時の避難路や焼止まりの機能を併せ持った緑道として町のシンボルゾーンとなっています。平成6年には「ぐんま名所百選」にも選ばれており、本町自慢の「心のオアシス」でもあります。

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常光寺(じょうこうじ)はかつて、志部(しべ)に所在し、龍泉院二世・芳庵正東(ほうあんせいとう)が開山したといわれています。
元禄年間(1688年から1703年)関口尾張(せきぐちおわり)・真下越前(ましもえちぜん)・久保田重則(くぼたしげのり)・中帯刀(なかたてわき)・三宅芳高(みやけよしたか)が現在の休泊掘、泉橋際に移して、瑠璃山薬師院常光寺としました。本尊薬師如来は運慶の作と伝えられています。

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児島高徳(こじまたかのり)は岡山県児島に生まれ、南北朝時代、南朝の新田一族とともに各地を奔走し、南朝三代の天皇に忠誠を尽くした武将です。
元弘2年(1332年)、隠岐配流の後醍醐天皇の救出に失敗した高徳は、桜木に十字の詩を書いて忠誠を誓ったのは有名な話です。弘和2年(1382年)、72歳で古海の地で没したと伝えられています。

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六道とは、仏教用語で人間が生前の行いの報いによって、死後行くであろうといわれる地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道の6つの世界を表します。
六道の辻は、現在の寄木戸北公民館の北、旧国道354号(現在:群馬県道142号綿貫篠塚線)と旧道が交わる場所(交差点名:寄木戸)に存在しています。上から見ると一点で交わる路が、放射状に6方向に延びているのがよくわかります。
赤トンボも「六道の辻」にきてどちらにいってよいのか、とても迷っている情景が目に浮かびます。

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わ行

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大泉まごころ音頭は、昭和62年町の発足30周年を記念して「大泉町の歌」とともに作られました。
作詞・鈴木比呂志(すずきひろし)、作曲・双葉あきら(ふたばあきら)、振り付け・飯塚ツヤ子(いいづくつやこ)、そして歌は演歌歌手の大月みやこ子(おおつきみやこ)さんが歌っています。
誰でも楽しく踊れるようにと考えられた振り付けで、多くの町民に親しまれてきました。

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  • 教育部 生涯学習課
    電話番号:0276-63-3111
    窓口の場所:公民館事務室内

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